研究報告要約
調査研究
4-112
倉方 俊輔
目的
本研究は、建築デザインとランドスケープを架け渡した建築家・⽯井修(1922〜2007)の未整理の図⾯資料を分類、整理し、その仕事の総体を社会に対して提⽰するものである。 ⽯井修は1922 年、奈良県明⽇⾹村で⽣まれた。奈良県⽴吉野⼯業学校建築科を1940 年に卒業し、⼤林組東京⽀店に勤務した後、早稲⽥⾼等⼯学校建築学科で学び、1956年に「美建・設計事務所」を設⽴して、オフィスや商業建築、集合住宅など多くの建築を設計し、2007年に没するまで設計活動を継続した。 これまでに確実に歴史的に位置づけられた⽯井の業績として、⽬神⼭に設計した⼀連の住宅がある。⽯井は1976年に兵庫県⻄宮市甲陽園に位置する⽬神⼭に移り住み、2007年に没するまでに22軒の住宅を当地に設計して、そのうち20軒が実現した。「⽬神⼭の⼀連の住宅」は1987年に⽇本建築学会賞(作品)を受けた。同年には「⽬神⼭の家8」が吉⽥五⼗⼋賞を受賞した。JIA25年賞⼤賞は、竣⼯後25年を超えて良好な維持管理がなされている名作に与えられるものだが、2002年に「回帰草庵(⽬神⼭の家1)」が同賞を受賞した。また、通りに対して緑が向き合うように配慮した⽬神⼭の⼀連の住宅のあり⽅は、2003年に⻄宮市が都市計画決定した「みどりのガイドライン」の⽅針にも採⽤されるに⾄った。当初は理解されなかった⽯井の試みは、敷地の中で完結する住宅ではなく、地域の公共性に、あるいは地球環境に開かれた住まいを希求するようになった建築界の潮流と呼応する形で、次第に賛同者を増した。そして、没後に⼀層の注⽬が集まったと⾔えよう。今、⽬神⼭の⼀連の住宅の特質を解明し、⽯井修の仕事の全貌の中でそれを位置づけることには、⼤きな意義がある。 本研究の特⾊であり、最⼤の新規性は、これまで⼿つかずであった⼀次資料に基づく点にある。⽯井の⾃邸「回帰草庵」に現在、美建・設計事務所の図⾯資料が多数、保管されている。その数は筒にして100以上となる。保存状態はおおむね良好だが、未整理の状態である。これらを分類、整理することにより、作品リストならびに図⾯リストを完成させる。⽯井修については、⾼い関⼼を集めながらも、全業績を扱った作品集も作品リストも存在しないのが現状だが、本研究の成果は今後に参照される基盤を形成するものである。 加えて、本研究の独創的な点は、上記の実証的・史料的な⽯井修研究と並⾏して、⽯井の教えを受けた建築家ならびに同様の問題意識から設計を進めている若⼿の建築家の視点を分析に加えることにある。具体的には、前者については、美建・設計事務所OBである⽵原義⼆・遠藤秀平、⼦息である⽯井良平からの聞き取りを中⼼に、関係者のオーラルヒストリーを収集する。後者については、⼤学で研究室を持っている建築家の光嶋裕介・⼭⼝陽登を中⼼に、図⾯資料に基づいた模型を制作する。これらを総合して、⽯井修を時代の中に位置づける基礎的研究を完成させる。
内容
1. 図面資料の分類、整理
現在、兵庫県西宮市甲陽園の「回帰草庵」に保管されている石井修・美建・設計事務所の図面資料を分類、整理する。図面は筒にして100以上となるが、筒に簡単なラベルが貼ってある以外、リスト化などはなされていない状態である。これらの分類・整理を行う。
2. 石井修に関するオーラルヒストリーの収集
本研究の共同研究者である竹原義二と遠藤秀平は、大学教員を長く務め、また石井修の建築設計事務所の出身者として著名な建築家である。共同研究者の石井良平は。図面資料を管理している石井修の子息であり、事務所以外における石井修の発言も多く記憶している。このような知見を持った人物の見解は、図面資料を分類、整理する上で欠かすことはできない。加えて、こうした経験自体が、今後、評価を進める上での基礎的な重要性を有する。
3. 図面資料に基いた模型の制作
図面資料の意味を読み解いていく上で、それに基づいた模型を制作する。石井修の先駆性の一つが、建築デザインとランドスケープを架け渡したことであり、自ら家具も設計するなどインテリアデザインに対する配慮にも特筆すべきものがある。こうした総合的なデザインの性格と意義を読み解く上で、大地とともにある模型をつくることが大きな意義を有する。本研究の共同研究者である光嶋裕介と山口陽登は、環境と呼応する建築設計を進めている関西の建築家であり、模型制作を通じた再読に適任である。神戸大学の光嶋裕介研究室と大阪公立大学の山口陽登研究室、それに加えて、大阪公立大学の小池志保子研究室、神戸芸術工科大学の畑友洋研究室に研究室に所属する大学生・大学院生によって模型を制作した。
方法
1. 図面資料の分類、整理
アーカイブズ学の考え方に基づき、筒の単位を崩さないように、対応する作品を照合し、第1段階のリストを作成した。その後、筒の中の図面を逐一リスト化し、図面種類、縮尺、作成年、担当者などのデータを整理した。上記の作業は、申請者(代表者)による監督の上で、各研究室に所属する学部4年生・大学院生が分担した。
2. 石井修に関するオーラルヒストリーの収集
まず竹原義二、遠藤秀平、石井良平に対して聞き取りを行い、内容を整理した。その後、3名の発言の中から聞き取りすべき候補者を拡げた。追加された候補者は、1963〜66年に美建・設計事務所に勤務した吉田節雄、同じく1969〜71年に勤務した安原三郎、同じく1975〜78年と1981〜83年に勤務した楠本菊實、同じく1978〜81年に勤務した宮本洋一郎、同じく2006〜07年に勤務した濱谷明博の5名である。これら5名に対しても聞き取りを行い、内容を整理した。
3. 図面資料に基いた模型の制作
上に挙げた図面資料の分類、整理ならびに石井修に関するオーラルヒストリーの収集の成果を反映して、以下の6つの模型を制作することを決定し、実行した。神戸大学の光嶋裕介研究室が「天と地の家」と「T氏の家」、大阪公立大学の山口陽登研究室が「回帰草庵(目神山の家1)」、大阪公立大学の小池志保子研究室が「ドムス香里」、神戸芸術工科大学の畑友洋研究室が「石橋サービスセンター」と「目神山の家8」の模型を制作した。研究の目的を鑑み、模型の縮尺は「回帰草庵(目神山の家1)」が1/15、その他の5作品が1/50とした。
結論・考察
本研究で行った図面資料の分類と整理、石井修のオーラルヒストリー、図面資料に基づいた模型の制作から得た成果を要約すれば、石井修という建築家にふさわしい言葉は「挑戦」である。依頼者の夢を後押しするように、場所ごとに、具体的な新たな試みを続けていった。それを技術的にも精神的にも可能にしたのが、ものづくりの出自だ。小学校を卒業後に吉野工業学校で学び、短期間の大林組の勤務と応召に伴う鉄筋コンクリート施設の建設などを経て、戦後に工務店を自営、1956年に設計事務所を開設するという経歴は、近現代の日本で一般的に批評されるような建築家とは異なっている。大学やアトリエ事務所における師の影響を受けとめ、乗り越えて、建築全般に対する自らの姿勢をいかに築くか。あるいはそれをジャーナリズムでいかに見せて、次のステップにつなぐか。それらと異なるところで、一本の筋が通っているのである。
一つ一つの設計の依頼に応えながら、バラバラになってしまわないのは、それぞれの試みが具体性を離れていないためだろう。建築の設計は、依頼されて始まり、特定の敷地に対してなされ、物質を通じて具現化される。石井修の設計における挑戦も、依頼してきた人の望みと無縁でなく、敷地に呼応し、材料や構造に対する個人的な感覚とそれらの専門家や職人たちとのコミュニケーションに支えられている。その上で、内発的である。なぜなら、人生の仕事として、誰に頼まれたわけでもなく、自分で選択したからだ。依頼者も敷地も技術も、一つの社会の中にいる。したがって、それらを観念的に整理しなくても、やがてつながるに違いない。石井修は、連続的で理性的に自らの作風を創出しようと試みる人間ではなかった。施主に寄り添いながら情熱的に、時に突発的に設計を行える、そんな力量と胆力を備えた建築家だった。その結果、回帰草庵の以前に、すべての要素が出揃っていたことになる。それは丸太材や煉瓦や工業素材などの率直な使用であり、ランドスケープと一体化する石壁であり、地表面を相対化する断面構成だった。また、目に見えないものとして、依頼者との関係性がある。回帰草庵の以前に培われた人脈が、意外なほどに住宅のクライアントに接続している。これもジャーナリズム上に重きがある建築家たちと、異なる回路である。
とはいえ、1976年に完成した「回帰草庵(目神山の家1)」が大きな跳躍だということは動かしがたい。目神山において、大地面に挑む設計が初めて本格的になされたからだ。傾斜した面に埋もれるように住まいを構える。言うのはたやすいが、実現するとなると計画的にも技術的にも、また意匠的にも難題の連続だろう。だが、高度成長期という時期に恵まれた、30年近い経験がそれを乗り越えさせた。大学を出ているか出ていないかにかかわらず、無謀さを避け、真に挑戦すべき要点を見極めることは20代や30代では困難だ。50歳を超えて、自らの人生における安住の場所として、同時に、自らの職能が真に可能かという挑戦として試みられたのが自邸の建設だった。その成功は、建築への真摯さに由来する多彩な従来の経験と相重なり、以降の豊穣な作品群をもたらした。
英文要約
研究題目
Basic research by architect Osamu Ishii through the organization of drawings
申請者(代表研究者)氏名・所属機関及び職名
Kurakata Shunsuke (Osaka Metropolitan Unversity, Graduate School of Engineering Division of Urban Engineering, Professor)
本文
If we were to summarize the results of the classification and organization of the drawing materials used in this research, the oral history of Osamu Ishii, and the production of models based on the drawing materials, the word that best describes the architect Osamu Ishii is “challenge”. He continued to make specific new attempts in each place, in order to support the dreams of his clients. What made this possible, both technically and mentally, was his background in manufacturing. After graduating from elementary school, he studied at Yoshino Technical School, worked for Obayashi Corporation for a short period of time, and then built reinforced concrete facilities during his military service. After the war, he ran his own construction company, and in 1956 he opened his own design office. His career path is different from that of the architects generally criticized in modern Japan. How does one build one’s own stance towards architecture in general, by absorbing and overcoming the influence of one’s teachers at university and in the atelier? Or, how does one show this in journalism and connect it to the next step? In these and other ways, there is a single thread that runs through it all.
The reason why each design request is not lost in the shuffle is probably because each attempt is not divorced from the concrete. Architectural design begins with a request, is carried out for a specific site, and is realized through materials. The challenges in the designs of Osamu Ishii are not unrelated to the wishes of the people who commission them, but are supported by a response to the site, a personal sense of materials and structure, and communication with specialists and craftsmen. Furthermore, it is an internal drive. This is because, as a life’s work, he chose it himself, not being asked by anyone. The client, the site, and the technology are all part of one society. Therefore, even without conceptualizing them, they will eventually connect. Osamu Ishii was not a person who tried to create his own style in a continuous and rational way. He was an architect with the ability and courage to design passionately and spontaneously, while also being able to work closely with the client. As a result, all the elements were in place before the Kaikyo-soan. These included the straightforward use of materials such as logs, bricks and industrial materials, the stone walls that integrated with the landscape, and the cross-sectional composition that relativized the ground surface. Another thing that is not visible is the relationship with the client. The network of connections cultivated before the Kaikiso-an house was surprisingly connected to the client of the house. This is also a different circuit from the architects who place importance on journalism.
However, it is undeniable that the Kaikiso-an house (Megamiyama House 1), completed in 1976, was a major leap forward. This was the first time that a design that challenged the ground surface was fully realized in Megamiyama. The house is built as if it were buried in the sloping surface. It is easy to say, but when it comes to actually realizing it, it would be a series of difficult problems in terms of planning, technology and design. However, the nearly 30 years of experience gained during the period of rapid economic growth helped us overcome these difficulties. Whether or not you have graduated from university, it is difficult in your 20s and 30s to avoid recklessness and to discern the key points that should be truly challenged. The construction of his own house was an attempt to create a place of comfort in his life, and at the same time, a challenge to see whether his professional skills were truly viable. The success of this project, combined with his diverse previous experience and his sincerity towards architecture, led to a series of rich and fruitful works.